秀長に学ぶ(3)
- 2023年05月29日
- CATEGORY- 2. エンジニア力{思考}
亀井です。
さて、その3です。
戦国最強?
この本のあとがきにさらりと書かれているのですが、
この人、生涯100戦以上するも、一度も崩れることが無かったんですね。
中には金ヶ崎のようなとんでもない負け戦もあったのですが、
殿(しんがり)でこれを支えた。
「ん?崩れることが無かった?金ヶ崎で負けとるんやろ?」
と思われるかと思うのですが、
「殿(しんがり)」についての解説をwikipediaから抜粋します。
本隊の後退行動の際に敵に本隊の背後を暴露せざるをえないという戦術的に劣勢な状況において、殿は敵の追撃を阻止し、本隊の後退を掩護することが目的である。そのため本隊から支援や援軍を受けることもできず、限られた戦力で敵の追撃を食い止めなければならない最も危険な任務であった。このため古来より武芸・人格に優れた武将が務める大役とされてきた。
殿(しんがり)を任せられるというのは名誉な事なんですね。
金ヶ崎の戦いというのは信長の歴戦の中でも最もデカイ負け戦で、
信長は「わしの命さえあれば織田家は存続する」とばかりに
死ぬ気で逃げます。
20名程度のお供しか居なかったと伝えられています。
で、信長逃げた後の織田軍をどうするか、なんですが。
ここで秀吉が殿(しんがり)に立候補し、
大きく崩れる事なく撤退を成功させたんですね。
これは負け戦ではあっても不名誉な事でも何でもなく、
むしろ普通の勝ち戦よりずっと難易度は高いわけです。
ここで秀吉は一気に武将としての評価を高め歴史の表舞台に登場することになります。
秀吉がここで奮戦したという事は、
秀長も共に殿(しんがり)を務めたはずだと堺屋太一氏は書いています。
ただし、近年の研究では「秀吉が金ヶ崎で殿(しんがり)を務めた」
というエピソードは創作だという説が有力のようなのですが(笑)
ま、それはともかく、「生涯負けなし」なんていう事を言い出してしまうと、
戦に強いというよりは、「勝ち馬を探すのがうまい人」です。
個人の力量で何とかなる戦なんてそんなに多くないんですから。
秀長はその生涯で多くの防衛戦や負け戦も経験しました。
しかし「勝てる戦で負けることが無く、防衛戦や負ける戦でも決して崩れることが無かった」のです。
堺屋太一氏の書く「生涯100戦以上するも、一度も崩れることが無かった」という言葉はそういう意味です。
この本の冒頭、秀長は秀吉に、
「わしに武士なぞ出来るじゃろうか」と尋ねると秀吉はこのように答えます。
武士は、体や力ではない。戦場で大事なのは度胸だ。向こうから敵が群をなして来る。雄叫びが聞こえる。怖い。骨が鳴るほどに身が震える。それでも逃げずに隠れずに進む。その度胸だ。それさえできれば、知らぬ間に戦に勝ち功名が上げられるもんだ。
秀長は答えます。
「それならわしにもできそうじゃ」
尋常の答えではありません(笑)
大地も震える敵兵の群れ、ましてやそれが負け戦であれば。
この秀吉と秀長との問答は100%堺屋太一氏の創作とおもわれますが、
これくらい感覚がぶっ壊れてないと
「100戦して一度も崩れない(判断を間違えない)」
なんていう事は出来ないように思いますので、
案外秀長という人はこのくらいの感覚の持ち主だったのかもしれません。
表舞台に出ることを徹底して避けたこの人でしたが、
四国、九州統一という、「日本統一の総仕上げ」という段になり、
「秀吉の天下は誰の目にも明らか。もう遠慮する必要が無くなった」と思ったのか、
急に総大将を務めるようになります。
その時に率いた兵数は10万を超える規模。
戦場の状況の把握ひとつとっても非常に困難です。
この数は歴史上にもそれほどない規模ですが、
得意の兵站、補給も当然危なげなくこなし、諸将からの信頼あついこの人は、
彼らに対する調整能力も抜群だったのです。
あっという間に長宗我部、島津を壊滅に追いやります。
島津も寡兵の不利を挽回すべく、夜襲をかけてみたりするんですが崩れない。
武勇を誇る土佐兵も、勇猛第一と言われた薩摩隼人も手も足も出なかった。戸次川で、仙石、長宗我部、大友の大軍を破った島津勢も、この人が来るとたちまち薩摩一国に追い詰められてしまう。
とこの本には書かれています。
「なんだこの人類最強は・・・」と思いながら本を閉じた少年時代の私でした。
ま、こんな感じで軽ーく読んでいただくと楽しめる一冊だと思います。
是非ご一読ください!
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