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秀長に学ぶ(4)


亀井です。

さて、その4です。

秀長は天正19年1月22日に亡くなります。
信長が本能寺で没したのが天正10年ですから、わずか9年後に秀長は没しているのです。
たった9年の間にすべてが変わりました。
さて、最後に(?)この本の「あとがき」について触れさせてください。

信長が没した後、諸将は天下統一を目指して猛烈なレースを開始します。
秀吉はその中にあってむしろ不利な立場にありました。

しかし、天正11年、
柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで下した後は天下の情勢は大きく秀吉に傾きます。
少なくとも秀長はそう判断したようです。

「もう誰が見ても兄秀吉の権勢は明らか、わしが何をしようと兄者の働きと世間は見るだろう。俺はもう自重しない!!」

天正12年、小牧長久手の戦いでは秀長はまたたく間に四隣の7か国を平定
その後天正13年には豊臣軍の総大将として長宗我部元親を下し四国を平定
天正15年には九州の島津をあっさりと下し九州まで平定してのけるのです。

自重しない秀長、恐ろしすぎます。

天正10年から天正13年四国平定の丸3年間に、
秀吉の領地は10倍、動員兵力も1万から10万になりました。
3年の間に社員1万人の中堅企業の事業規模がいきなり10倍になったのと同じです。

もとより成り上がりで人材の乏しい豊臣家のトップは
大変なオーバーワークであったことでしょう。
このような状態の中にあっても豊臣家を支えたのが秀長だったようです。
あらゆる家臣、諸将が秀長を頼りました。
中でも有名なのは千利休でしょう。
高慢な千利休は短気な秀吉を何度となく怒らせ、秀長邸に逃げ込んでいます。

残忍で猜疑心の強い秀吉も
秀長が存命の間は部下を切るような事はほとんどありませんでした。
利休が秀吉に聚楽屋敷内で切腹を命じられるのは
なんと秀長が没すたった1か月後、天正19年2月28日です。

秀長は長い病の後に静かに死んだそうです。この人の死によって豊臣家の何かが変わりました。

この人の死んだその日から、豊臣の家をより幸せにするような事は何一つ起こらなかった。

とこの本はあとがきを結んでいます。

なんか悲しい感じになっちゃいましたが、この本はあとがきがいいんです!
ぜひあとがきまでしっかり読んで、この本を100%楽しんで頂きたいな~と思います。

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