秀長に学ぶ(5)
- 2023年09月04日
- CATEGORY- 2. エンジニア力{思考}
亀井です。
あとがきの後にまだなんかあるんかいという話ですが。
小牧・長久手の戦い
本能寺の変の2年後、三・遠・駿の3か国に甲斐、信濃を併呑し、
5か国を併せた徳川家康とぶつかった
天正12年の「小牧・長久手の戦い」をご紹介させてください。
小牧・長久手だけでなく、
これを中心に全国規模で発生した戦役を俗に「小牧・長久手の戦い」と言ってまして、
のちに徳川家はこの戦役の事を
「公(神君家康)の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして、小牧にあり」
頼山陽『日本外史』
と、「小牧・長久手の戦い」こそが
徳川家康を天下人へ押し上げた原動力になったと喧伝するんですね。
この戦いは「織田信雄こそが信長の後継者である」とした、
信雄・家康連合軍と秀吉軍の戦いでした。
ググりますと、
信雄・家康連合軍と秀吉軍の最初の戦いは、尾張国羽黒(愛知県犬山市)で行われ、家康方は勝利を収めました。その後、家康は3月28日に小牧山(愛知県小牧市)に陣を張り、秀吉は小牧山に近い楽田(がくでん、犬山市)に陣を構えました。信雄・家康連合軍は約1万7千人、秀吉軍は10万人(一説には6万人とも)という、圧倒的な戦力差でした。
しかし、戦いの結果は家康方の大勝利。秀吉方は、死傷者1万人とも言われ、大敗を喫しました。https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents2_01/
と書かれているサイトも見受けられますね。
これ、徳川家の資料を基に書いてるわけです。
家康と秀吉の直接対決はこの「小牧長久手の戦い」が最初で最後。
秀吉は10万ともいわれる軍勢を投入したにも関わらず、
家康はたった1万7千人(しかも信雄との連合軍)にて散々に打ち破った、と。
多聞院日記には、
今分ハ家康勝ニ可成歟
と書かれているそうです。
「もう家康に勝てるやつ、いないんじゃね?」という感じでしょうか。
多聞院日記、ブレませんね。
秀長の事嫌いすぎです。
徳川家としては秀吉と家康が直接対決したのがこの時しかないので、
わりと無理やり「小牧・長久手の戦い」を家康の勝利に持っていった節があります。
確かに秀吉と家康が直接対決した長久手においては
家康は目覚ましい勝利を収めているのですが、
冒頭で、
「小牧・長久手だけでなく、これを中心に全国規模で発生した戦役」と書いたように、
その裏で他のとこでも戦争やってるわけです。
そして、
この長久手の敗戦を埋め合わせるに十分な勝利を伊勢で上げていたのが秀長でした。
自分の活躍を表に出したくない秀長と、派手に宣伝したい家康。
この「小牧・長久手の戦い」がトータルで見ると秀吉の勝利であったのは
講和条件が秀吉有利であったことから明らかです。
長久手の戦いで家康が局地的勝利を収めている間に
秀長は四隣を平定してしまっていたのです。
これが、「小牧・長久手の戦い」が「徳川の圧倒的勝利」であったのにも関わらず、
この戦いの後、家康が自国の領地にすごすごと引き上げ、
何も得ることが出来なかっという奇妙な現象の理由だったんですね。
ともあれこの戦いが秀長が「自重した」最後の戦いであったようです。
その後、秀長は自重を捨てて、
天正13年以降は豊臣軍の総大将として四国、九州を次々と平定してゆきます。
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