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秀長に学ぶ(6)


亀井です。

その6です。

さて、その5で見た小牧長久手の戦いですが。

この戦いに限らず、秀長は時に戦術的勝利にこだわらず戦略的な勝利を得ることを重視しました。戦術的勝利というのは局所戦での勝利です。戦略的勝利というのは大局で見た場合の勝利です。いくさに限った話ではありません。

竹中半兵衛

わずか数十名で稲葉山城を乗っ取るという大技を実現させ一躍名を上げた竹中半兵衛という男がいました。まだまだ秀吉が駆け出しの頃、人材難にあえいでいた秀吉はそんな彼に目を付け、「わしの軍師、いや先生に」と、彼をおだてにおだて、やっとのことで自分の居城に迎えます。竹中半兵衛はこの時なんとまだ二十歳にもならぬ若者でした。お調子者の秀吉は「半兵衛殿、どうぞ上座に」と言い出します。秀長にしてみれば「やれやれ・・・」と思わずにはいられないクサい芝居です。

さすがの半兵衛もそれには遠慮し、「それでは恐れ多いが対等に・・・」と秀吉と向かい合って座ります。城主である秀吉にとっては半兵衛を上座に座らせようがおだてようがどうでもよい、城の最高権力者は城主であり、これは信長から任命されたもの。この城にとどまる限り半兵衛は秀吉より目下のものであり、勝手に城主の座を奪われることはありません。難しいのは秀長の立場です。半兵衛と秀長の間には上下、序列の問題が生じるのです。自分はどこに座るか、一瞬悩んだ秀長は「大事の前の小事じゃわい」と決心し、下座に、しかも大きく距離を開けて座ります。半兵衛との序列争いなどというものはこの人にとっては戦術的、局所的なものでした。

かれらの「いくさ」は将棋のように王手を取れば勝ち、というような性質のものではなく、碁のようにより多くの陣地を取った方が勝ち、という性質のものだったのです。秀長が終生このような戦略的、大局的な目線で物事にあたったからこそこの人の生きている間、豊臣家は大いに栄えたのです。

この時秀長を歯牙にもかけぬあしらいをする竹中半兵衛ですが、実のところその身分は織田家直参の家臣であり、秀吉の家臣ではありませんでした。しかし半兵衛はそんなことにはこだわらずその後13年にわたって秀吉を支えることになります。稲葉山城乗っ取りはまぐれではありませんでした。半兵衛は胆力、武、知略を兼ね備えた本物の中の本物だったのです。彼は智謀の家臣の少なかった初期の豊臣家にとって貴重な人物だっただけでなく、いち早く秀長の軍才を認め、惜しみなく褒めたたえてくれた人でもありました。彼のような誰もが認める勇士からの惜しみない賛辞が秀長の立場をどれほどよくしたか計り知れません。彼は35歳にして結核に倒れその短い生涯を閉じます。

さてこの竹中半兵衛と秀長について別の面白い話を堺屋太一氏はこの本の中で書いています。その話については弊社の鶴田がとても参考になったと言っておりますので、いずれ書いてくれることでしょう。

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