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秀長に学ぶ(2)


亀井です。

という事で、秀長に学ぶその2です。

金の亡者?

多聞院日記というものがありまして。

『多聞院日記』(たもんいんにっき)は、奈良興福寺の塔頭多聞院において、文明10年(1478年)から元和4年(1618年)にかけて140年もの間、僧の英俊を始め、三代の筆者によって延々と書き継がれた日記。当時の近畿一円の記録が僧侶達の日記から分る一級資料である。

(Wikipediaより)

という、非常に貴重な日記です。

寺社勢力というのは当時非常に厄介でして、
信長も寺社勢力と一応の手打ちをするまでに10年という歳月を費やしています。
寺社勢力というと「お坊さん」をイメージすると思うのですが、ちょっと違ってまして。

この勢力はこの地方で「自治区」として成立しており、
商工業や金融の拠点として強い経済力を持つに至っていたのです。
経済力というのはそれだけで厄介ですが、
工業と結びつくことで雑賀孫市で有名な雑賀衆は
寺社勢力として当時の日本で一番の鉄砲部隊を持つに至っていました。

信長がこの地方を平らげた後に統治を任されることになる秀長は
彼ら寺社勢力をよく抑え、暴発も許さなかった。
秀長は彼らの既得権益を脅かし、経済的地盤すら脅かすのですが、
とにかく秀長にはつけいる「スキ」というものがありませんでした。

そりゃ寺社勢力から見たら恨み骨髄なわけです。

秀長は、自分で高利貸しをやってまでカネを集めたそうです。
これは寺社勢力の力を奪う事だけでなく、
秀吉が多用する「ゼニが異様にかかる作戦の数々」の実行のために、
という目的もあったでしょう。
ちなみに当時、商行為に対して有効な課税の手段がありませんでした。
秀長が高利貸しをした理由の一つでもあったでしょう。

秀長自身も紛争や争い事の調整を非常に得意としており、
カネで解決できる場合は惜しみなくカネを使う人でした。

カネの力を良く知っている人だったのですね。

で、その寺社勢力の一つである奈良興福寺の僧侶は秀長の死亡をきいて、

天正19年1月22日(1591年2月15日)、秀長は郡山城内で病死した。享年52。男子がいなかったため、家督は養嗣子になっていた甥(姉・智の息子、秀次の弟)の秀保に継がせた[6]。郡山城には金子56,000余枚、銀子は2間四方の部屋に満杯になる程の金銀が備蓄されていたという(多聞院日記)。

(Wikipediaより)

前後の文脈が書かれていないのですが、
どうやらこの文章、ニュアンスとしては、

秀長は(高利貸しのような)がめついマネまでして蓄財に励んだようで、「郡山城には金子56,000余枚、銀子は2間四方の部屋に満杯になる程の金銀が備蓄されていたという」。しかし死んでしまった今となってはそれを使う事も出来ない。まったく気の毒なことだ。

という感じの皮肉たっぷりの書きぶりだったようです。

この皮肉の中に、秀長に頭を抑えられた悔しさと秀長の蓄財の成功が見て取れますね。
秀長は後述しますが、戦でもスキを見せません。
戦争をやって秀長を葬るのは無理でした。

寺社勢力の得意とする政治やカネでもどうにもならない。
となればこんな恨み骨髄の文章を書いてるだけでは問題は解決しません。
暗殺も当然考えたことでしょうね・・・。

秀長が目を付けた「カネ」は今でいえば、
「情報産業」や「AI」なのかもしれませんね。
彼はイーロンマスクのような人だったわけです。

といったところで、その3に続きます。