鉄血宰相ビスマルクのお話
- 2023年07月10日
- CATEGORY- 2. エンジニア力{思考}
私の好きな歴史上の人物の一人が鉄血宰相ビスマルクです。
プロイセン東部の地主貴族ユンカーの出身であり、代議士・外交官を経て、1862年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世からプロイセン首相に任命され、軍制改革(ドイツ語版)を断行してドイツ統一戦争に乗り出した。1867年の普墺戦争の勝利で北ドイツ連邦を樹立し、ついで1871年の普仏戦争の勝利で南ドイツ諸国も取り込んだ統一ドイツ国家「ドイツ国(Deutsches Reich)」(いわゆるドイツ帝国)を樹立した。プロイセン首相に加えてドイツ国宰相も兼務し、1890年に失脚するまで強力にドイツを指導した。文化闘争や社会主義者鎮圧法などで反体制分子を厳しく取り締まる一方、諸制度の近代化改革を行い、また世界に先駆けて全国民強制加入の社会保険制度を創出する社会政策を行った。卓越した外交力で国際政治においても主導的人物となり、19世紀後半のヨーロッパに「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築した。
Wikipediaより
なんかいろんな事をやったように読めますが、
彼のゴール(戦略)は最初から「小ドイツ」の統一でした。
当時小国が分立していたドイツ。
中でも北ドイツの一部でしかない小国プロイセン王国に生まれた彼が、
北ドイツだけでなく、
南北ドイツをも統一する、
というゴール設定をするのです。
特に南ドイツを統一するにあたっては、
宗教の違い、
という非常にデカイ問題を乗り越える必要がありました。
どうもビスマルクの頭の中にはこの
小ドイツ統一というゴールまでの壮大な詰将棋が
描き切れていたように見えます。
サイコパス?
さて、私が彼のすごいと思っていた点の一つが、
彼が1862年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世からプロイセン首相に任命されるや、
真っ先に行った無予算統治と軍制改革の断行です。
これ、何かっていうと、ビスマルクは軍拡が必須だと思っていて、
軍制改革、要するに軍事費を大幅に増やす予算編成を
議会に提案するわけです。
この時の彼の演説が「鉄血演説」と言われ、
彼自身も「鉄血宰相」と言われるようになる所以になるんです。
一節を引用します。
現在の問題は演説や多数決 ―これが1848年から1849年の大きな過ちであったが― によってではなく、鉄と血によってのみ解決される。
この演説によって彼は余計に議会から反発を買い、
予算は承認されず、不成立となりました。
そこで彼はどうしたかというと、
「ま、不成立とはいえ、国家運営はしないと仕方ないですし、
とりあえず私の案通り進めますね~」
と言い出すわけです。
議会にしたら「は?」て話じゃないですか。
「承認してないだろうが!」
って話です。
今だと内閣不信任決議みたいなことになるんでしょうかね。
そして、解散総選挙と。
ただ、そのころのプロイセンでは首相はプロイセン国王が任命するもの。
任命権も解任権もプロイセン国王ヴィルヘルム1世のみにある。
んで、ヴィルヘルム1世がビスマルクを全然解任しないわけです。
そして、この強引な無予算統治が開始されることになるのですが、
この軍制改革は軍事の天才モルトケの協力もあり、大成功。
その後立て続けに周辺諸国との間に発生した戦争に勝ちまくります。
そして、この勝利を得た後に、ビスマルクは議会に言うのです。
「あの時は勝手な事やってごめんね?
やっぱり議会の承認無しにあんなことしたの、良くないよね。
今からでいいから追認してくれない?」
なんせ戦争に勝ちまくって国内はナショナリズムに沸いてますからね。
議会もこれを追認することになりました。
なんつーサイコパスなんや、ビスマルク、ってことです。
ヴィルヘルム1世に解任されるリスクとか、
戦争に勝てなかった場合のリスクとか、
どう考えてたん?
ところがどうやらこの話は、話の筋が逆のようでして、
1862年、無予算統治を決意したヴィルヘルム1世は、その覚悟がある者としてローンが推薦するビスマルクをプロイセン首相に任命した
wikipedia より
ヴィルヘルム1世の気持ちとして、もともと「軍制改革をしたい!」と。
んで、それを議会の承認を得れなくても断行してくれそうな
ビスマルクを首相に指名した。
という事のようです。
という事で、
ヴィルヘルム1世の強い意向を踏まえての事であれば、
ビスマルクのこの無茶も半分は理解が出来ますね。
外交芸術家?
ただ、軍制改革をしたおかげで連戦連勝出来た、
という話が通用するほど当時のヨーロッパは甘くありません。
なんだかんだと口実を付けてすーぐ列強は介入してくるのです。
その裏にはほとんどパズルと見える
ビスマルクの外交手腕がありました。
諸外国と連戦はするんですが、
他の国はプロイセンとの同盟関係や密約で
手が出せない状態が常に維持されていました。
さらに、基本的に他の列強が介入してこないような、
口実を作ってから戦争してました。
特にフランスのナポレオン三世は、
たぶん何回もビスマルクとの口約束に騙されてます。
かわいそうです。
このナポレオン三世、ビスマルクの策略で、
プロイセンに対する宣戦布告に追い込まれ、
何の準備も出来ていない状態でプロイセンと戦争することに。
自ら前線に赴き、指揮をとりますが、
フランスは連敗。
結局彼自身がプロイセン軍の捕虜になっちゃいます。
かわいそうです。
逆にこれにより、ビスマルクが目指したドイツの統一は完成を見ます。
その後、19世紀後半、急にヨーロッパから戦争が無くなりました。
怖いです。
ビスマルク体制とまで呼ばれた当時のヨーロッパの
同盟関係図です。
何より目を引くのがフランスの孤立っぷりです。
ドイツ帝国完成後、突如中欧に誕生した新帝国を
ヨーロッパ中が警戒しました。
逆にビスマルクが最も警戒したのはフランスでした。
まあ、相当ひどいことしてますしね(笑)
何回も騙された挙句、
その後はずーっとヨーロッパで孤立を強いられるフランス。
かわいそうです。
ビスマルクのゴールはドイツの統一です。
普仏戦争前からこの体制の維持は考え抜かれたものでした。
パズルのように同盟関係を構築したり解消したり、
実に30年にわたって、
この時期のヨーロッパは
ビスマルクの手中にあったように見えます。
小さなプロイセン王国は今やドイツ帝国となり、
ヨーロッパの中でも世界随一の軍隊と強大な工業力を所持した
列強として世界に認められるまでになりました。
ビスマルクの退場
1888年3月9日、ビスマルクを首相に任命した人である
皇帝ヴィルヘルム1世が90歳で崩御します。
短いフリードリヒ3世時代を経て即位したのが
当時29歳のヴィルヘルム2世でした。
彼は即位して2年後の1890年、
ビスマルクを退任させちゃいます。
祖父ヴィルヘルム1世は小さく弱いプロイセンを生きてきた、
怖れを知る人でした。北ドイツの盟主となった時点で、
「さすがにもういいよ、なんかこえーよ・・・」とビビッた態度を見せ、
ビスマルクにキレられた事もありました。
一方で、ヴィルヘルム2世が物心ついたころには
ドイツはすでに
世界最強国の中の一つでした。
列強の一角であるフランスだってボッコボコにします。
「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」
ヴィルヘルム2世の言葉です。
ビスマルクを退任させたのは、
やる気に満ち溢れた若き皇帝の思い上がりでした。
ビスマルク体制の崩壊
このビスマルク体制のすごさは
むしろその崩壊の速さで感じる事が出来ます。爆速です。
20年にわたって孤立していたフランスですが、
ビスマルクの退任の翌年1891年からロシアと接近をはじめ、
1894年、ついに露仏同盟の締結に至ります。
この同盟はまさに蟻の一穴、
ビスマルク体制はここに瓦解し、この同盟は
のちにイギリス・フランス・ロシア同盟の基礎となります。
この同盟関係はのちにそのまま協商国と言われる、
第一次世界大戦の戦勝国側の同盟になります。
ビスマルク体制図をよく見ると、
ヨーロッパの列強である
イギリス・フランス・ロシアの3国に
一切の同盟関係が無いことがわかります。
これがビスマルク体制のアートであり、
足しても引いてもいけないものでした。
ヨーロッパ列強は絶妙な勢力均衡の上にあったのです。
第一次世界大戦は1914年に始まり、
この戦争は「ドイツ・オーストリア対世界」に近いレベルの
バカげたものであり、
ビスマルク時代を通じて富国強兵を続け、
世界一と言っても過言ではない軍事大国であったドイツは、
それでも4年以上にわたって
消耗戦・総力戦を繰り広げますが、
まあ無理だよねという事になります。
1918年、ドイツ革命によってヴィルヘルム2世は国を追われ、
ドイツ帝国最後の皇帝となってしまいました。
ドイツ自体も「無限戦後賠償地獄の刑」に処されることになります。
ビスマルクもヴィルヘルム2世も、
目指したものは富国強兵でした。
おんなじなわけです。
でも少しディテールが違ったわけです。
結果、こんだけ変わります。
「ビスマルク体制の崩壊」はいつから始まっていたのでしょうか?
ビスマルクが退任した翌年からですね。
歴史に学ぶ
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
この言葉はビスマルクの言葉として私も認識していました。
どうもググってみると、
「何かを判断するとき、自分の経験頼みにならず、他者の経験に学ぶことでより良い判断ができる」
https://recruit.firstlogic.co.jp/blog/about/whatisfl014/ より
の方が正確な翻訳だ、とか出てきますが、
まあ、大体一緒じゃんという事で。
ビスマルクはナポレオン1世にも学んでいたようです。
ナポレオン1世は一時ヨーロッパ大陸の大半を
勢力下に置いたにも関わらず、
最終的に対仏大同盟に敗北します。
事の詳細はここでは割愛しますが、
「わしゃ同じ失敗はせんぞ」と思っていたことでしょう。
「引き際間違えなかった」
「ゴール設定しっかりしてた」点では
歴史上、傑出してると思います。
ちょっと長くなりました。
ビスマルクを好きになったエピソード、
「エムス電報事件」についてはまたの機会があれば書きたいと思います。
ではまた。
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