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千利休に学ぶ


亀井です。

今日は千利休のお話をしたいと思います。いつものようにwikipediaより。

千利休(せんのりきゅう、せんりきゅう、大永2年(1522年) – 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。また、末吉孫左衛門の親族である平野勘平衛利方と親しく交流があった。子孫は茶道の三千家として続いている。千利休は天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、豊臣秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は粛清されるようになった。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あり、定まっていない。

私もそんなに千利休に興味もなかったのですが、堺の商人で、茶道の創始者にして、豊臣政権で3頭政治の一角を担ったフィクサーでもあったという程度の理解でした。

で、父親と一緒に正月、NHK特集で千利休をがっつり見て彼の事を知ったわけです。堺が信長の直轄地となっていく中で、彼も信長に召し抱えらえることになります。信長は風流を解する人ではあったものの、部下に褒美として与える土地が無くなった後にそれに代わるものとして茶道具を利用した面が強く、利休もこれに力を貸したように見えます。信長の力だけでは茶道具にこれほどの価値を持たせることは出来なかったでしょう。

総合芸術としての茶道

利休には美を「発見」する特異な才能があったのです。

利休屋敷に咲く朝顔が見事に咲き乱れて美しいとの評判を耳にした秀吉が、朝顔の茶会を所望し訪れたところ、露地の朝顔はすべて刈り取られそこには一輪もない。
秀吉は大変不機嫌になりました。そんな秀吉が茶室に入りそこで目にしたのは、たった一輪が床に生けられており、朝の空気と静寂の中で輝くように見事に咲いた朝顔でした。利休は大変お褒めにあずかりました。
茶話指月集(谷端昭夫訳)
「咲き乱れる」美も当然あると思うのですが、利休は「たった一輪」の中に美を見出したんですね。そして、秀吉の来訪を知った利休は秀吉にこの「たった一輪」を見せるためだけに屋敷に咲く朝顔をすべて刈り取ってしまうのです。これが「もてなしの心」であり、見る人はそこに美だけでなく強い感動を覚えるのです。
ウェッジウッドの陶磁器のように真っ白でゆがみの無いものにも美しさはあります。しかし、利休はゆがみのある茶器や、一度割れてしまい修理の跡が残る茶器に美を見出します。見た目の美しさだけが美と考えていてはこれは理解が出来ません。利休の「世界に埋もれた美を発見する能力」はあまりにも秀でていました。
茶の湯というと、茶と茶器にばかり目が向いてしまいますが、
茶の湯は初めて、客として訪れともに茶を喫して退出するまでのすべてを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言える。
wikipedia より
利休は心こそが大事であり茶器は本質では無い、だから庶民であろうとも茶の湯を楽しむことが出来ると考えていたようで、武士の間だけではなく庶民にも茶の湯は愛され、今にその伝統を「茶道」として伝えています。単なる「茶の湯」を今に続く「茶道」として完成させたのが利休でした。

黄金の茶室

さて、この利休の特異な才能であった「美を発見する能力」ですが、余人の及ぶところではなく、由緒ある茶器にとどまらず、利休が美しいと言えばそれは美しく、価値があると言えばそれは価値がある、どうもそのような風潮さえできてきてしまいます。こうなると茶器の価値(値段)を利休が自由に決めているようなものです。先に書いたように信長は茶道具を積極的に政治に利用したのですが、利休もそれに協力的であったように見えます。
本能寺の変の後、天正10年、秀吉に主を変えた利休でしたが、天正13年、「黄金の茶室」を作ります。
黄金の茶室(おうごんのちゃしつ)は 天正13年(1585年)、豊臣秀吉が造らせた金箔張り、広さ三畳、組み立て式の茶室である。
wikipedia より(写真はMOA美術館による復元)
んー?ですよね。
千利休が黄金の茶室の制作に関わったかどうか、明確な史料は見当たらない。従来、千利休のわび茶の精神とはまったく異質であり、秀吉の悪趣味が極まったものである、という見方がなされてきた。しかし、茶室の研究家である建築家堀口捨己は、豪奢、華やかさも利休の茶の一面であると論じたことがあり、MOA美術館で復元を担当した早川正夫も、千利休が制作に関与しなかったはずがないと述べている
wikipedia より
という事で、天正13年に茶室を作るとなって利休がこれに関与しなかったなんてことは秀吉と利休の関係性から考えてもあり得ないと私も思います。なんか茶道具を政治利用したり、黄金の茶室作ってみたり、一方で「庶民でも茶の湯を楽しめる」と言ってみたり。「どっちがほんとの利休なん?」テレビを見ながら私は父に尋ねました。子供というのはお父さんは何でも知っていると思うものです。父は寝っ転がりながら「どっちも利休や」と言いました。

茶道の完成

さて、話は(NHK特集の中で)進み、天正19年、ついに利休は秀吉に切腹を命じられます。この切腹の本当の理由は良く分かっていません。NHK特集の中でもそんな終わり方だったと思います。3時間くらいある特集のあっけない終わりです。「なんで利休は切腹したん?逃げたら良かったやん」私はまた父に尋ねました。父は同じ場所に寝っ転がったまま短く答えました。「なんで切腹したかはわからへん。せやけど、あそこで切腹してなかったら茶道は今に残らんかったなぁ。最後の最後で利休は茶道を選んだんやなぁ。」

そんな話はNHK特集でも言ってませんし、Wikipediaにも書いてないのですが、

秀吉と茶道に対する考え方で対立したという説[23]。

権力者である秀吉と芸術家である利休の自負心の対決の結果という説 [30][31][32]。

wikipedia より

 この辺の話?
この話はこれで終わりです。茶道を残してこの世を去った利休の生涯を見て、「偉人というものは自分の中に巨大な矛盾を抱えたままの状態で生きてるんやなあ。そのこと自体がその人を化け物のように見せるものなのかもしれんなあ」とその時は思いました。
ただ、今になって、逆に利休がもし茶室にこもっていたら利休もあの境地には立てなかったのかもしれないと思います。俗世にまみれていてこそ、その俗世からの救いとして茶道を完成させることが出来たのかもしれません。

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